渡辺カケルのブログ

ギター弾き語り

より音楽が、芸術が必要な時代

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こんにちは。札幌はあいにくの雨。渡辺カケルです。いかがお過ごしですか。私は風邪気味です。ゲホゲホしすぎて、喉がいたいです。今日は音楽や芸術に関して、毎度のようにアタマの中のもやもやをすっきりさせるための自己満足的な文章を書いていこうと思います。

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最近またアコースティックギターをわきに抱えながら札幌にあるライブバーで音楽を演奏させていただいたりしている。人前で演奏するというのは、やはり緊張する。私は小心者なので、たぶん人一倍緊張していると思う。演奏すること自体はとても楽しいし、誰かに自分の演奏を聴いてもらえることはとてもありがたいことだと思う。こういう場があること、そして音楽というものは人生に彩りを与えてくれる。

なぜ音楽を演奏するのか

自分自身を客観的にみて考えると、ひとつは音楽をきっかけとして社会と他者と関わりたいという欲求、もうひとつは自分をそして自分の才能を誰かに認めてほしいという承認欲求、この二つが頭の中でせめぎ合いながら、己を表現の世界にかり立てている。楽器を奏でるのが好きというだけであれば、自宅や音楽スタジオで楽器を鳴らすだけでいいわけなので外部とのつながりは必要ない。

信用できない時代

話しはがらっと変わり、北朝鮮の核ミサイルはどこに落ちるだろう。そもそも落ちないのか。そもそも日本に撃たないのだろうか。いま言えるのは、落ちる可能性があるということだけ。

また変わって、北海道の最低賃金は現在786円である。私は高校生のころチェーンのカレー屋で働いていたのだが、そのときの時給は650円ほどだった。当時に比べれば136円アップしているが、それでも全国の平均時給に届いていないし、東京の最低賃金932円に比べると依然格差はある。人口が多いと求人件数は多い、賃金と求人件数をみても、物価は高いが東京周辺に労働者が流れていく仕組みは依然としてまだある。東京ではこれからオリンピックが控えている。その経済効果はどれくらいになるのだろう。東京が潤えば、地方も潤うのだろうか。

音楽が身近になった?

音楽が身近になった、と感じることがある。ときどきツイッターを眺めていると、音楽活動をしている人の多さに驚く。プロフィールや投稿をさらっとみた範囲で判断しているだけなので、その数は計り知れない。それこそ、私が音楽を始めたころ、10代のころはもちろんツイッターもなかったし、その数を視覚で判断すること自体が無理なことだった。また当時は音楽をやっている人のイメージはなんだか怖そうなひとが多く、ライブハウスはドキドキハラハラしながら入るところだった。現在では良い悪いは別にして、そういったダークなイメージが薄れてきて、入り口それ自体がとても低くなっているような印象を受ける。私の年齢が上がっていったことも関係しているかもしれないが、一般人としての感覚でいうと音楽を気軽に楽しめるようになった気がする。札幌市が旗を振ってシティジャズなるものも開催している。不況とも言われなくなって久しいが、むしろ音楽はより活発になり、人々の生活に寄り添っている。私の周りには、というか札幌には、年齢に関係なく地に足をつけた素晴らしい音楽家がいて心から尊敬している。そしてかれら音楽家の表現の場がいくつもある。それは単純に嬉しい。

音楽の価値

値札がついたものには、その値段以上の価値は見いだせない。音楽も、物心ついたときにはすでに音楽は産業だった。経済の中に音楽は組み込まれていた。エンターテイメント、娯楽としての大衆音楽を聴いて育ってきた。当たり前だと思っていた音楽、しかしそれは海外からもたらされたフォーマットに則っているのだと気が付いた。私たちの音楽はどこにある。音楽は本来もっと人間の生と密接に関わっていたのではないか。それこそ宗教と同じレベルで。文明が発達していく段階でさまざまな音楽の表情を見失ってしまった可能性はある。高揚感、怒り、喜び、悲しみ。さまざまな感情を呼び起こす「祈り」のような音楽に価値を置くべきだ。

より音楽が、芸術が必要な時代

不安定でいて未知数、いまの社会では私たちに希望を提示することはできない。希望も保証もない、というところから始めなければならない。そのなかでどこに希望を見出すか、希望とはなんなのか。自分にとっての幸福とはなにか。ひとりひとりがジタバタしながら追い求めることになる。そしてこれらの答えはひとつではなく、人の数だけ答えがある。皆どこかでわかっていて、その重圧に耐えるために、私たちはより音楽や芸術に関わりたいと望んでいるのかもしれない。